声掛けは一瞬の恥。女性とのコミュニケーションは一生の問題。

 ちなみに、最近、人生のありとあらゆる場面に、出会いのチャンスが転がっている、と感じるようになってきた。
 

 例えば、僕は昔、登録制のバイトを少しだけやっていた。
 一番初めに面接に行く際、待合スペースで隣にいる女性に何気なく声をかけた。
 すると、お互い、面接の緊張があったからかどうかわからないが、向こうも親しげに応えてくれた。
 結局、その後最寄り駅まで一緒に帰り、連絡先も交換した。
 その後、音信不通になった時期もあったものの、今でもたまにメールを交わす間柄である。


 こういう例は稀だ。少なくとも、僕の場合(毎日のようにこういうことをしてる人も、中にはいるんでしょうが)。
 しかし、この経験は、示唆に富むものであった。
 人と人との関係、特に男女の関係においては、きっかけが、非常に重要だ。
 なにも、上で書いたような、ナンパめいたシチュエーションだけではない。同じクラスの気になる子や、取引先のOL、フィットネスジムでいつもみかける女性、など、こういうのは人生においていくらでもある場面だろう。
 特に、男は、「きっかけを作る側」という役目を、いやおうなく、担うこととなる。
 このことを、「不公平だ」「自分は魅力がないから」などと、くされて見る向きもあるだろう。
 しかし、僕は、この点については、かなり楽観的に捉えている。


1 「自分」が、「自分」の選択で、「自分」の気の向いたときに、声を掛けることができる。(きっかけを作るという点においては、)主導権は自分(男)の側にあるといっていいだろう。声をかけたきゃ、のどがかれるまでいくらでもかけられるし、気乗りしなければ、ただただ静かに過ごせばいい。一方、女性は、化粧や服やダイエット等で、自分の魅力を高めることはできるが、それもこれも、うがった見方をすれば、「声をかけてもらう確率を高めるため」ととることができる。つまるところ、男:選ぶ側、女:選ばれる側という構造は、崩れることがない(こと、きっかけ作りにおいては、だが)。


2 スポーツや音楽で突出した才能があったり、俳優になれるくらいの整った顔立ちの男であれば、黙っていても、女性が寄ってくるだろう。でも、そんな人は男の中でもほんの一握り。自分を含め、その他大勢の男は、自分から行動を起こさなければならない。自分に魅力がないとしたら、その分、相手に好いてもらうべく、自分を磨いたり、女心を勉強したり、いろんな工夫や努力が必要だ。そして、声をかけるということも、その中の一つの要素だろう。下手な鉄砲数うちゃ当たる、というと言い方は悪いが、たで食う虫も好き好き(もっと悪いか)。自分という存在を気に入ってくれる女性は、必ずいるのだ。もし、そういう確信を持てなくても、「きっといるんだ!そういう人を探し当てるんだ!」くらいの気概があってもいいんじゃないだろうか。平凡な男が声をかけても、きっと失敗だらけだろう。でも、失敗は、成功のタネ。人間は、成功よりも、失敗からの方が、多くを学ぶものだ。「うまくいかなかった」という悔しい、恥ずかしい、せつない経験は、輝かしい未来へ一歩近づいた、と考えたいものだ。


 最後に言いたいのは、どんなに相性の良い関係の二人でも、最初にどちらかが声をかけなければ、人生が交わることはなかった、ということ。最初に僕が自らの赤裸々な体験を書いたのも、これが言いたかったから。待合スペースで、声をかけるのをためらっていたら、今、彼女とは全くの赤の他人になっていたわけだ。当時の一瞬の勇気が、その後の二人の関係が発生するかどうかを分けた。こういうきっかけで、結婚にまで至るケースも、ないではないだろう。その場合、人生までをも分けることになる。


 ちなみに、こういう教訓めいた記述は、何も、偉そうに人に教えようとしているわけではない。自分に言い聞かせている、という面が大きい。自分なりの考えというのは、人に話すなり、考えを文章に変換するなりして、アウトプットしないと、本当に自分のものとして体得したことにはならないと考えているから。それに加えて、自分の突飛な考えが、奇特な方の目にとまり、共感を覚えてくれれば、コレに勝る喜びはないな、というほのかな期待もある。