皇居ランニングに思う

 あまりに沈んできたので、2つめは明るい話題を。
 今日、人生初の、皇居ランニングにチャレンジした。
 1周5km走ったのだが、ベテランランナーからみたらひよっこでしかないから、マラソンではなくランニングとする。
 しかし、想像以上に、気持ちいい!
 走り始めてすぐ、足首に痛みが発生。久々に路上を走ったことと、準備運動不足、あと、少しペースを上げすぎたことがたたったのだろう。
 そこで、少し体をほぐし、ウォーキングして体を慣らした後、ゆっくりめのペースで再始動。
 やはりつらいはつらいが、でも徐々に、楽しさ、気持ちよさの方が上回ってきた。
 澄み渡る空、皇居の厳かさと豊かな緑、東京の象徴でもあるビル群のコントラストが美しいことと、そして、うつだのなんだので苦しんでいる自分ではあるが、今こうして、生きていること、それをひしと実感できること。走ることによる苦しさと抜けるような青い空が化学反応を引き起こし、そのような感覚をもたらしたのだろうか。


 ランニングって、けっこういいかもしれない。今まで、「あんなマゾな行為は絶対にしまい」と思ってたのだが。でも、なんというのだろう、走っていると、苦しくなってくるのだ、当然ながら。「自分はもっと走れるはずだ。先にいけるはずだ。」と頭は思っているのに、足が、呼吸器が、充分に応えてくれない。自然、頭で思い描くペースで走ろうとすると、息がみだれ、足首が痛み、走れなくなってくる。わきからはベテランナンナーや、ムキムキのアスリートが、自分の倍近いスピードで颯爽と走り抜けていく。
 あれ?これって何かに似てないか、と感じた。そう、実社会の競争と似ているのだ。自分ではもっと上を上を、と思っているのに、実際はそううまくはいかない。仕事も、恋愛も。苦しい。辛い。泣きたい。叫びたい。そして究極は、「もう放り出したい」。
 実際、そう気軽に人生は放り出せない。この点については、人生とランニングとの違いが生まれる。走る行為は自分の心ひとつで、すぐに止められるのだ。
 しかし、それでも走る。苦しい。どんどん呼吸がしんどくなってくる。「限界」の2文字が頭をよぎる。
 しかし、それでも走る。傍らでは、他のランナーが、どんどん走り抜けていく。屈辱的だ。自分はなぜこんなにも遅い?心が乱れてくる。
 しかし、それでも走る。外苑のあたりをデートしにきたカップルが、手をつなぎ楽しそうに歩いている。かわいい彼女と、魅力的そうな男。。。それに引きかえ、、、自分。
 しかし、それでも走る。


「放り出したくないから。」


 足を出し続ける。一歩、一歩、、、
 理屈なんてない。「放り出したくない。」この一念があるだけ。
 そして、人生も。自分を生かしているのは、この思い。
 今まで支えてきてくれた人がいるからなのか、自分の元来の真面目さゆえなのか、あまのじゃくさがもたらすものなのか、はたまた、生命としての本能なのか、定かにはつかめないが。
 そして、こうやって、いろんな葛藤と闘いながら走り続けることで、「自分」を見つめざるをえなくなってくる。自分の遅さを認め、まわりのランナーの速さを認めることが必要になってくる。そして、その上で、自分を高める鍛錬が始まる。
 人生も、然り。同様の自己修行が必要なのだ。理想像と現実の姿を、見比べ、自分の視点、価値観を、修正する。25年間かけて築き上げられたいびつな思考というはびこった塊を、かんなで削ぎ落とすような作業だから、無論、心には激痛が生じる。でも、やらなければ。映画「手紙」の主人公じゃないが、「自分は今、ここから始める。」ことを心に刻み込むということだ。
 

 そんなことを考えさせてくれた皇居ランニング。初体験は1周(5km)38分という、お恥ずかしい記録だった。まずは30分切るのを目指し、これからも続ける!