働くということ

 就職して、人の下で働くことは、社会の歯車になり、規格化された枠の中に押し込まれること。大学のころは、就職に対し、そういった暗いイメージを持っていた。一方で、こうういう思いは、最初だけで、じきに、その状態に慣れてくるものだ、とも思っていた。
 実際、社会に出て、どうか。確かに、見えない足かせが周り中に張り巡らされてる感じを受ける。公務員という仕事柄、余計にそうだ。それどころか、この思いは、時間が経つにつれ、強まっている感がある。仕事や職場の仕組みを知れば知るほど、しきたりや制限を知ることになる。四方八方が塞がれていて、自分の裁量でもって創意工夫を行えるのは、ごくわずかな領域であることが明白になってきた。こんなのは当たり前といえば当たり前のことなのだが、それを身をもって知るというのは、こたえるものだ。民間、特に、外資や革新的なところだと、若い頃からバリバリやれるんだろうが、自分にはそれも困難と感じる。そういう職場においてはより活発で高度な人間関係(対人折衝能力)が求められるであろうからだ。対人関係において、(公務員の職場ですら)過大なストレスを抱えがちな自分にとって、それは自殺行為だと感じる。特に外資は、「ある日出勤したら、自分の机がきれいに片付いており、クビを言い渡された。事前にクビを通告し、社内の機密データを持ち出さないようにするためらしい」という話も聞く。一寸先は闇というか、いくら稼ぎがよくても、こんな明日をも知れぬ緊張感の元で仕事をするなんて、自分にはとてもできない。
 「歳をとり位があがれば、責任のある仕事を任せられる」というのももっともだろうが、それにしても、職場の上司を見ていても、「こんな仕事をしてて果たしてやりがいを見出せるんだろうか」と首をかしげざるをえない。これは、うちの職場ならではなのだろうか。それとも、どの業種でも、似たり寄ったりなのだろうか。「今も仕事がつまらない。将来もつまらないことが予見される」というのでは、あまりに味気ないというか、どうしようもない人生だなあと、なんだかますますむなしくなってくるのである。